幼稚園ではどうか?

子どもが訂正します

父が、弟を炊事当番に使っていた。そのときのことを弟は、父は勝手な人
だと書いている。常識が通じないという意味だろう。弟にチリトリで掃除を命じておいて、そばでじっと監視していて、やり方が悪いと叱ったりすると弟はボヤいていたものである。
14守月-今になってわかる父の孤独父が、青山の焼け跡に病院を再建したのが、最近までわたしが住んでいた四谷の外来病院と同じぐらいの規模の小さい病院だった。大きな精神病院は地元の反対で、青山に再建ができず小田急の沿線に持っていたそちらの方にも、週1回、回診に行った。回診に行った帰りに車に乗ると、事務長などが、
院長先生、きょうはノーネクタイですかと聞く。すると、父は烈火の如く怒り出す。院長が、ネクタイをし忘れたのをなぜ注意しなかったのかと怒るのだ。

母親は自殺事務長としては、きょうは蒸し暑いから、院長はノーネクタイで来たのだろうと思い、うっかり
あいさつがわりにひと言、言っただけなのである。それを怒ったりするのだから、まことに勝手な話だ。言ったほうはポカンとしてしまう。気の小さい人だったら恨むかもしれない。父にはそういう常識外れのところがあった。
そとづらっちづら父の対人的な行動は、外面がよくて、内面が悪いということが言える。父が診ていて、その後わたしが引き継いだ親子二代にわたる患者がいる。もういい歳のお婆さんだが、その人がわたしのところへ初めて来たときにお父さまは何てやさしい先生だったのでしょうと言ったので、わたしはあっけにとられてしまった。父がやさしいなんてとんでもない。その患者は、あんなにやさしい先生は見たことないとか、物の言いかたもとてもやさしくていい先生だったとか言うので、こちらが驚いてしまった。
父はもともとあまり社交的ではなくて、人にお世辞を言ったりすることも不得手なのだが、医という商売柄如才なくせねばと精一杯努力した面もあっただろう。

  • いじめられて自殺した子の話が新聞に出ていたけれど
  • 指導します。
  • 子どもには不自由をさせたくない

母さんが自分の独占物ではなく

学校で生徒たちの十年間開業医大の教授も勤め、ヨーロッパ留学のときも学問の道を断念するつもりはなかったはずだ。ところが病院が燃え、そのショックで祖父は無気力になり、父は病院再建の全責任を押しつけられた病院の再建はたいへんな苦労で、恐らく父の一生で一番苦労したのは、大正十四年から昭和11年頃までではなかったかと思う。地元住民の病院再建反対運動に加え、新聞も反対していた。お金もなくて高利貸しから借金までした結果、返済の目途が立たなくなり、あちこち金策に飛び回らなければならなかった。いやおうなく人との交流をうまくやらねばならない。父としては可能な限り努力したのであろう。
その反動が家庭に爆発したと思うのだ。
うだったのかもしれない。
家庭の中も決して楽しい状態ではなかったからよけいそ父は、真の意味で孤独だっただろうと思う。人との交流というのは、商売上、芸術上の付き合いだけで、ほんとうは父は孤独な人だった。今の年になって、わたしは父の孤独の深さがわかるような気がする-晩年の父とわたしわたしが結婚したのは、戦争が激しくなった昭和十八年である。

子どもにも読ませたいと思った本て、軍服を着ることになった。
結婚して三カ月目には召集が来わたしの場合は、あまり体が強くなかったので第二乙種で、現役ではなかった。戦争が始まり軍医が足りなくなって、軍医予備員という制度がつくられた。これは民間で開業している医師とか大学の年とった教授や助教授とか、現役でない予備役の医師たちを採ったわけだ。召集して、軍医としての教育を一定期間やって、一度家に帰す。もちろん最初は歩兵連隊で、何日間か兵士として教育をし、その後陸軍病院で軍陣医学の教育をし、衛生軍曹という資格で帰ってくるそのうちほんとうの召集が来る。わたしが入隊した先は、千葉県下の陸軍病院である。勤務中のある日、突然中国大陸行きの命令が下って平日のうちに自宅に帰って家族と別れを告げてこい
と言う。大急ぎで家に帰ったはいいが、自宅には誰もいなかった。父は箱根の別荘に行っているという。女房も、父の面倒をみるため同行しているという。この時は怒りの気持ちがムラムラと起こった。

子どもが言ったからといって

いっ外地にやられるかというときに留守をするとは何ごとだと怒りの手紙を書き置きして部隊に戻った。
したがって、わたしが中国へ出征したときの父の態度とか感情というのは、今でもよくわからない。父の日記には、わたしが出発したという文章は一行も出ていない。そういうことに対しては感情を表に出さない頃だった。わざと書かなかったのか、忘れたのか、わからな無事に昭和二十年の十月に、わからない復員して来たときも、父は東北に疎開していたから父の感情は全く戦争が終わってホッとしたのはいいが、自宅と病院は戦災で跡形もなく焼けて灰になっていた慶応病院での勉強時代に出征したので、また元の病院に戻ったのだが、もちろん一文の収入もなかった。

勉強しないとわ

勉強を積んで最も本格的にやり給えわたしも三代目だ。病院が焼けましたといって、そのままのほほんとしているわけにはいかなかった。なんとか食べていかねばならない。
何カ月か経つうちに、病院をぜひ再建しなければいけないと考えるようになった。
祖父が浅草か
ら始め、神田、そして日露戦争の前に青山に病院をつくったし、私は青山生まれであるから、誰が考えても青山の焼跡にバラックでも建てて、と考えるのが普通の考えだろう。周囲もわたしも、当然そう考えた。父は山形県の大石田に疎開していて、大病肋膜炎を患って、やっと命をとりとめたという時期だったそこで、友人の建築家に設計図を引いてもらい、ささやかな診療所から出発したいと思い、疎開先まで父に会いにいったところ、思いがけない返事が返ってきた。
青山はダメだ、とにかくダメだと父は言った。ダメだという理由がさっぱりわからない。なんと感情的で、勝手な父親だろうと、思ったりしたその後、少し落ち着いて父の心情を考えてみて、おぼろげに父の心がわかってきた。


母親は自殺 子どもをもっと抱きしめてあげてください。 母親は自殺