母親は自殺

父親よ強く

子どもの前で母親が父親へ命令する場合、えてして夫の悪口になることが多い。グズだとか、男らしくないとか、つい口にするものだ。これは子どもに対して大きな悪影響を与える。いよいよ父親の権威が地に墜ちる。くどいようだが、子どもの前で夫の悪口を言うことは、母親も自分自身の首を締めることになりかねないのだ。それを防ぐためには、父親も威厳を持たなければならない。
威張るというのではなく、家族に対する責任感を持ち、それなりの人格を備えることだ。夫の悪口を言う凄も悪いが、言わせる夫もだらしがないのであるつまり、子どもにとって父親たる姿を見せるためには、凄の協力が不可欠ということでもある。
そしてそのためには、夫たるもの凄の協力を得られる夫たりえなくてはいけないのだ。

中学二年の秋

父親は心にゆとりを-悩みを忘れるために歌の道へ進んだ父父·茂吉は歌人として、二回の全集につづいて、今なお新たに選集が刊行されるなど、人びとに愛されていることはまことに有難いことである。この父の才能とその成果はどこからきたものなのだろうと、ときどき考えることがあるそれには、まず、素質と環境を取り上げるのが妥当だろう。文学者のみならず、に達するには、素質が必要で、それに環境が大きく関与してくると思うあるレベル以上文学や芸術は暖房完備の温室の中からは生まれない。お金もあって、いい奥さんがいて家庭も幸福で、子どもたちは親に少しの心配もかけず、社会的にも出世して何の苦労もないという
温室には、芸術は育たないと思う。
いみじくも松本清張さんがおもしろい言葉を述べている。悪妻が文豪をつくるという言葉だなかなかうがった言葉だ。

 

子どもの心に届かない習性

母は働かなければならなかった。子どもをもっと抱きしめてあげてください。

生前、わたしの母は父の同情者、ファンから悪玉女だといわれていたらしい。もちろんその反論はわたしにあるが、とにかく世間にはそういう批判があるようだ。森鴎外夏目漱石のファンは、同様に、その夫人を悪凄だと言う人がいる。なぜそのように言われるのだろうかわが家の場合第一に、父が養子の身であり、養家に遠慮があったということ。母は家つき娘でわがままいっぱいに育っている。もともと次女なのだが、長女が早く死んだので、まるで長女のごとく育てられた。

母さんは一生懸命にそんな自分性格も強く、本当は女に生まれないで、男に生まれるべき人だったと思われる。その証拠に、祖父は、
おまえが男だったらなあと、しょっちゅう洩らしていた。代議士までやった祖父に頼りにされるほどの実務的なタイプの母だから、文学的な父とはウマが合うはずがないまさに正反対、水と油の性質だ父にとって、決して家庭は楽しいところではなかった。そういう悩みや苦しみが、よけい芸術に没頭させたとも考えられる。さらに、おおげさに言えば、悩みを忘れるために歌の道にのめりこんでいったとも考えられる。これが要因の一つであろう。もともと素質はあったと思うが、人から勧められてやったのではなく、あくまで自ら選んだ道なのであるこれは自分でも書いているが、正岡子規の本を神田の古本屋で手にとってペラペラとめくったとが、歌詠みの道を歩むきっかけになったと言われているが、これは本人のみが知ることだろう。
子どもや妻を前に話してみる。
子どもや妻を前に話してみる。

成長してきた女の子

子どももつい愉しくつられています。麻薬中毒が最初の一本の注射で決まるというのと同じだと言えば言えないこともないが、真相はわからない子規の本を手にとったときが、麻薬中毒でいえば最初の一本であって、素質的なものがあったからこそ、急速にそれに惹かれたといえばドラマは成り立つ。歌をつくっていれば、悩みも忘れられるということから、どんどんエスカレートしていったのではないか、とも考えられるがこれもあくまで推測に過ぎない。
-趣味が心の余裕をつくり上げる父が晩年、戦争のために疎開した先は山形の豪雪地帯という気象条件の厳しいところだったが父の一生のうち最も心の安らいだ時期だったのではないかと思う。病院は空襲で燃えて、心をくだく仕事はなくなり、周囲は故郷の人ばかりで気心は知れているし、故郷の言葉も気楽に喋れる。多くの人々の親切で、最低の生活は保障されている。心おきなく自由にあたりを散さくし、自由に歌もつくれる。この時期が父にとって最も心の安定したときではなかったかその証拠に、父は絵を描き出している。

子育てにも当てはめてしまう

父は三男坊だったから職業の選択は自由だった。
の頃は将来なりたい職業は、坊さんか絵描きだった。
子ども坊さんというのは、父が子どもの頃教えを受けた和尚さんのことが頭にあったのだろう。生家の隣りがお寺で、その住職は窿応和尚といって、父が漢文をはじめいろいろと教えをいただいた方である。小学生のころすでに論語を素読出来るほど、その和尚さんに薫陶を受けた。精神生活の恩師といえたもう一つ、絵描きのほうだが、父は子どもの頃から絵を描くのが好きだった。
凧絵を描いて、そ
はれを売って、小遣いにしていたほどで、当時の凧絵が今でもたくさん残っている。父の日記には絵がたくさん登場する。小学校三年生のとき担任


子どもをもっと抱きしめてあげてください。 写真館で卒業写真を撮りたいなと思う 成長の限界につながってしまう可能性もあります。