高校くらいは卒業していないと困るといった考え方

子どもが動かなくなるどころ

ケンカを通して彼らなりに社会わたしは中学時代、修学旅行の途中で大出血を起こし、列車を臨時停車させてしまったことがある。恥ずかしい話だが、その出血の理由は、旅行の前に級友とケンカをし、殴られて鼻の血管を切ったことであった。
ケンカの理由は、今となっては思い出せないきつとわたしが何か怒らせるようなことをしたのであろう。あの時の痛みはたまらないものだったが、わたしは殴った友達を憎むとか恨むというよリも、むしろわたしのほうが悪いという気持ちで一杯だった。
というのも、彼はわたしが当然よけるものと思ってパンチを出したにちがいない。しかしどうもわたしは運動神経が鈍く、そのうえぼんやり型で、実に見事にパンチを食らってしまった。

中学から高等おそらく、出血のすごさを見て殴ったほうがびっくりしたのではあるまいか。しかし、当然ではないことをして不必要にことを大きくしたのはわたしである。当時の中学生のモラルでは、この場合はむしろわたしのほうが悪いことになる。
すでにちょっと触れたが、わたしは耳鼻科の医者がとめるのもきかずに、修学旅行に参加した。
夜行で東京駅を出発したが、静岡あたりで再び出血が始まり、こんこんと止まらなかった。伊賀の上野にさしかかった頃、胃の中にたまった血液を大量に吐き、気を失って緊急下車させられた。その時の騒ぎは、今でも思い出すたびにアブラ汗が出るこれがもし現在の中学校だったらどうであろうか。ケンカでわたしが出血した時点で大問題になるのは間違いない。殴られた側が学校や殴った生徒を相手どって訴訟を起こすかもしれない。学校側は、ケンカ両成敗という基本セオリーなど無視し、殴った生徒だけ処分するだろう。また、殴られたわたしが修学旅行に参加することなど許すはずがない。
しかし、当時はそういう動きはまったくなかった。先生にはひどく叱られたが、問題はおおげさにならなかった。お陰で、わたしは友達も失わずにすんだ。わたしを殴った友達とは今でもときどき会っている。

  • 育てているでしょう。
  • 大学をとても受ける気力がなく
  • 母さんはどんな夢が見たい?

子ども自身でもありません。

子育てという夫婦ケンカとは、元来きちんとしたルールにのっとって行なわれるフェアな行為で、最近のいじめのような卑劣なものとは根本的に性質が異なる。文部省などはそれに気づいたのか、けんかのすすめという小冊子を出しているほどだ。
考えてみれば、親や学校をとび越えて役所がケンカをしなさいとすすめること自体おかしいが、本来教えるべき父親がケンカ道というか、ケンカのルールを教えていないのだから仕方がなぃ。
わたしなりにケンカのルールを簡単にあげてみよう。まず、ケンカは正々堂々とやれ。ケンカは1対1が原則。ケンカは素手でやれ。相手に反撃の機会を与えろ。真正面から勝負しろ、最後までやるな、といったところだろう。ケンカを通して、子どもは肉体的にも精神的にも成長していくという面もあるのだ。
そういった意味で、椎名誠さんのプロレスごっこは上手いやり方だと思う。ケンカのルールを子どもに体得させるだけでなく、父と子のコミュニケーションも図れ、一石二鳥というべきだろう。
父親は気遣いと頑固さを使い分ける
-時には父親から子どもに共通の話題をつくれ父と子のコミュニケーションをどうやって図るか、というのも重要な命題である。わたしはいささか怖い思いをし、お説教をされて育ったので、お説教は好きでないおおげさに言えば、拒否反応がある。

子供は親の姿をうつす鏡ですしたがって、子どもに説教をしたことはほとんどない。
食事などで顔を合わせるときの話題は、結局趣味のことになる。共通の話題をしゃべっていることが、コミュニケーションの基礎である。むしろ、そのほうが親にも安心感があるし、子どももおそらく同様であろう。日本人同士の挨拶はほとんど天気のことから始まる。この話題が最も安心感があり、お互いの利害とは関係がない。
子どもも大学生くらいになると、そんなに気を遣わなくてもいいのだが、中学生から高校生ぐらいにかけては、不安定な時期なので、父親としてはある程度努力する必要があるだろう。中学生の子どもに株の話など本人と無関係な話をしても仕方がなし。やはり父親と子の対話というのは共通な線を持たなければいけない。子どもは社会が狭いので、学校の話とか、プロ野球の話ぐらいしかできないのであるから、父親はそこへ自分を合わせる必要がある。ただし、これは父親が子どものレベルに身を落とせというのではない。
それが父親としての一つの努力で、あまり知識がなくても、うまくそれに合わせるようにするのが大事だ。そのためには勉強しなければならないこともあるだろう。

子供のノート

野球のヤの字も知らない父親でも、新聞のスポーツ欄ぐらいに目を通して、選手の名前の一人や二人は知る必要があるだろう何もそこまでやる必要はないのではないか、という人もいるかもしれないが、子どもがある年齢になるまではそのようなことも必要ではあるまいか親子の精神的絆をつくるには、そこから入っていくべきだ。
父親が努力をするほうが、しないよりはるかにいい。
子どもと共通の話題を持つようにやす-父親は易きに雷同しない姿勢を保つテレビはよくないと人はいう。タレントの加山雄三さんも、同じように考えたのだろう。テレビについて、こう、言っている。

ぼくはテレビについて考えるところがあり、わが家の育児は子どもにはテレビを見せない
からはじまりました。

教育するのか知識を教える

子どもが欲求不満になっている第一、忙しい父親が帰って来ている、あるいは日曜日に在宅しているというの子どもがテレビを見ているなどはよくないことです。だからぼくは子どもたちに、家では絶対テレビを見せませんでしたところが、子どもが幼稚園に通うようになって、問題になったのです。お宅ではテレビを見せないのですか。お友だちと話が合わなくて困っているようですよ。父母会で言われました。なるほど、そういうこともあったんだな。幼稚園の目的は集団を知るところにあるのに、友だちとコミュニケートできなくては、それもまずいよなあ。夫婦で出した結論は、ビデオテレビを買うことでした
子どもたちが集中的に見ている番組をビデオに撮る·ぼくがいなくて、女房が家事をしている時間帯に見せる
子どもはテレビを見たことになり、友だちとも話ができる


中学から高等 中学から高等 母子がいっまでも密着しすぎている

小学校高学年という

母さん片づけて

昔とちがって、今は時代が変わっているのだ。スキンシップのしすぎで、子どもが父親にしなだれかかるようでは困るがいつも子どもにとって父親が身近な存在であるように心掛けることも必要だ。
イラストレーターの山藤章二さんが面白いことを言っている。

ぼくとしては厳父と慈父の間をしじゅう揺れ動いているわけですよ。非常にこまかく揺れていて急に口やかましく、宿題やってあるのか1つなんて言い出すかと思うと、急に友だちづきあいしてオセロゲームやろうとか、時々刻々に変化するもんですから、子どもも対処しかねているんじゃないですか。中略ただ今日という時代は、厳父という形を維持するのが非常にむずかしい時代ですねえ。あれは!
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  • 育てた覚えはありません。
  • 成長期前後
  • 母さんが昔と比べると一人

母さんは僕との約束を守ってくれなかったじゃない

母さんを見ている妻が子どもの前で、夫の悪口を言ったり、夫をけなしたりすることはままあることだ。お父さん、またいつもの癖が始まったとか、しょうがないわねえとかを母親は子どもの前でよく言う。これは一見家庭円満のごとくみえるが、知らず知らずのうちに、父親を軽視する心を子どもに植えつけることになる。
-夫婦喧嘩は子どもの前でしない母親が子どもを扱うのと父親を扱うのは同じことだと思う。これは児童心理学の原理である。やはり父親を子どもの前でけなしてはいけない。内心は仕方のない夫だと思っていても、子どもの前ではやっぱりお父さんはちがうわねなどと言うことは、たいへん効果的である。
いわんや、夫婦喧嘩は気をつけなければいけない。妥協の余地もない猛烈な、人間としての尊厳を失うような型の夫婦喧嘩は、子どもの前で決してやるべきではない。

子どもさらにおまけがついた。子どもは感受性が強いのでショックは大人が考えるよりはるかに大きい。
わたしの子どもの頃、父と母は、しょっちゅう言い争いをやっていた。父の日記にも、しばしばきょうも輝子を殴ったなどと書いている。わたしが二人の間に泣いて割って入ったこともあるおかげで、わたしはいい加減なことでは驚かない一面を持つ子にはなったが……。
しかし、夫婦喧嘩といっても、ちょっとしたいさかいで、その後はジョークかなんかで、うまく締めくくれるようなのは、むしろご愛敬で子どもの教育にもなる。
後はパァッと晴れネチネチ、ダラダラした五月雨みたいな喧嘩はだめだ。
るような喧嘩ならば悪くない。
ゴロゴロと雷鳴一過家庭教育というのは、人に対する思いやりを教えることが根本だ。
うのが、家庭や社会をうまく成り立たせるための原動力にもなる。

学校は国電

一歩下がって人を立てるとい今の時代は、人を攻撃することによって満足感を味わったり、自分が偉くなったような気を簡単にもって自己陶酔に陥ってしまうような風潮が強い。しかし、そろそろこのことを反省していい時期だろう。戦前の儒教的で、封建的な社会と家庭教育の反動で戦後はこうなったのだろうが、時計の振り子のように、また別な方向に行くにちがいない。世の中は大きな周期で揺れ動いているのだカAら-一家の大黒柱としての責任を持つことで妻の協力も得られる問題のある家庭の多くは、父親の弱いところに悲劇が起こっている。父親が強いというのも、張って、大きい声を出すということではなく、堂々たる人格と責任感からくるものである。
威本来、母親はつねに実力者である。猫もニワトリも、き、敢然と自分より強い外敵に立ち向かうのは母親だ。
しかし、それを表に出すか出さないかが問題である野生生物が子どもや卵を外敵に襲われたと本当は主婦が家庭をリードしているものだ。

子供たちは一番嫌います。

学習グループです。昔の京都の女性というのは、自分の実力を決して表に出さなかった。決して、主人より上には自分を置かない。歩くのでも決して主人より前には出ない。何につけても主人を立てる。しかし、真の実力者はつねに妻であった。
今の若い夫婦の場合、共稼ぎで家事·育児を男女平等にやることを実践している人も少なくないようだだが、家事、育児を共同でやるにしても、それはあくまで、夫の意志によってやることが大切だ。
妻が、あなたやって下さいよというのではダメだ。凄に強制されて一所懸命やる亭主などいない亭主が自ら積極的に、女房が大変だから手伝ってやろうと、口には出さないが、掃除、洗たくをやってやるというのが理想の線だ。あくまで、亭主が自発的に家庭の仕事をする。妻が命令してはいけない。命令されるということは男にとってプライドを傷つけられ、必ずしも愉快なことではないからだ共働きで家事が多少おろそかになるのもやむを得ないことだが、育児については、たとえ短時間でもなるべく子どもと接触する時間を大事にするように、親は努力しなければならない。


母の女の生甲斐であった。 子どもは親が読つい魅かれてか絵本の文字を指さして 中学から高等