幼稚園ではどうか?

子どもが訂正します

父が、弟を炊事当番に使っていた。そのときのことを弟は、父は勝手な人
だと書いている。常識が通じないという意味だろう。弟にチリトリで掃除を命じておいて、そばでじっと監視していて、やり方が悪いと叱ったりすると弟はボヤいていたものである。
14守月-今になってわかる父の孤独父が、青山の焼け跡に病院を再建したのが、最近までわたしが住んでいた四谷の外来病院と同じぐらいの規模の小さい病院だった。大きな精神病院は地元の反対で、青山に再建ができず小田急の沿線に持っていたそちらの方にも、週1回、回診に行った。回診に行った帰りに車に乗ると、事務長などが、
院長先生、きょうはノーネクタイですかと聞く。すると、父は烈火の如く怒り出す。院長が、ネクタイをし忘れたのをなぜ注意しなかったのかと怒るのだ。

母親は自殺事務長としては、きょうは蒸し暑いから、院長はノーネクタイで来たのだろうと思い、うっかり
あいさつがわりにひと言、言っただけなのである。それを怒ったりするのだから、まことに勝手な話だ。言ったほうはポカンとしてしまう。気の小さい人だったら恨むかもしれない。父にはそういう常識外れのところがあった。
そとづらっちづら父の対人的な行動は、外面がよくて、内面が悪いということが言える。父が診ていて、その後わたしが引き継いだ親子二代にわたる患者がいる。もういい歳のお婆さんだが、その人がわたしのところへ初めて来たときにお父さまは何てやさしい先生だったのでしょうと言ったので、わたしはあっけにとられてしまった。父がやさしいなんてとんでもない。その患者は、あんなにやさしい先生は見たことないとか、物の言いかたもとてもやさしくていい先生だったとか言うので、こちらが驚いてしまった。
父はもともとあまり社交的ではなくて、人にお世辞を言ったりすることも不得手なのだが、医という商売柄如才なくせねばと精一杯努力した面もあっただろう。

  • いじめられて自殺した子の話が新聞に出ていたけれど
  • 指導します。
  • 子どもには不自由をさせたくない

母さんが自分の独占物ではなく

学校で生徒たちの十年間開業医大の教授も勤め、ヨーロッパ留学のときも学問の道を断念するつもりはなかったはずだ。ところが病院が燃え、そのショックで祖父は無気力になり、父は病院再建の全責任を押しつけられた病院の再建はたいへんな苦労で、恐らく父の一生で一番苦労したのは、大正十四年から昭和11年頃までではなかったかと思う。地元住民の病院再建反対運動に加え、新聞も反対していた。お金もなくて高利貸しから借金までした結果、返済の目途が立たなくなり、あちこち金策に飛び回らなければならなかった。いやおうなく人との交流をうまくやらねばならない。父としては可能な限り努力したのであろう。
その反動が家庭に爆発したと思うのだ。
うだったのかもしれない。
家庭の中も決して楽しい状態ではなかったからよけいそ父は、真の意味で孤独だっただろうと思う。人との交流というのは、商売上、芸術上の付き合いだけで、ほんとうは父は孤独な人だった。今の年になって、わたしは父の孤独の深さがわかるような気がする-晩年の父とわたしわたしが結婚したのは、戦争が激しくなった昭和十八年である。

子どもにも読ませたいと思った本て、軍服を着ることになった。
結婚して三カ月目には召集が来わたしの場合は、あまり体が強くなかったので第二乙種で、現役ではなかった。戦争が始まり軍医が足りなくなって、軍医予備員という制度がつくられた。これは民間で開業している医師とか大学の年とった教授や助教授とか、現役でない予備役の医師たちを採ったわけだ。召集して、軍医としての教育を一定期間やって、一度家に帰す。もちろん最初は歩兵連隊で、何日間か兵士として教育をし、その後陸軍病院で軍陣医学の教育をし、衛生軍曹という資格で帰ってくるそのうちほんとうの召集が来る。わたしが入隊した先は、千葉県下の陸軍病院である。勤務中のある日、突然中国大陸行きの命令が下って平日のうちに自宅に帰って家族と別れを告げてこい
と言う。大急ぎで家に帰ったはいいが、自宅には誰もいなかった。父は箱根の別荘に行っているという。女房も、父の面倒をみるため同行しているという。この時は怒りの気持ちがムラムラと起こった。

子どもが言ったからといって

いっ外地にやられるかというときに留守をするとは何ごとだと怒りの手紙を書き置きして部隊に戻った。
したがって、わたしが中国へ出征したときの父の態度とか感情というのは、今でもよくわからない。父の日記には、わたしが出発したという文章は一行も出ていない。そういうことに対しては感情を表に出さない頃だった。わざと書かなかったのか、忘れたのか、わからな無事に昭和二十年の十月に、わからない復員して来たときも、父は東北に疎開していたから父の感情は全く戦争が終わってホッとしたのはいいが、自宅と病院は戦災で跡形もなく焼けて灰になっていた慶応病院での勉強時代に出征したので、また元の病院に戻ったのだが、もちろん一文の収入もなかった。

勉強しないとわ

勉強を積んで最も本格的にやり給えわたしも三代目だ。病院が焼けましたといって、そのままのほほんとしているわけにはいかなかった。なんとか食べていかねばならない。
何カ月か経つうちに、病院をぜひ再建しなければいけないと考えるようになった。
祖父が浅草か
ら始め、神田、そして日露戦争の前に青山に病院をつくったし、私は青山生まれであるから、誰が考えても青山の焼跡にバラックでも建てて、と考えるのが普通の考えだろう。周囲もわたしも、当然そう考えた。父は山形県の大石田に疎開していて、大病肋膜炎を患って、やっと命をとりとめたという時期だったそこで、友人の建築家に設計図を引いてもらい、ささやかな診療所から出発したいと思い、疎開先まで父に会いにいったところ、思いがけない返事が返ってきた。
青山はダメだ、とにかくダメだと父は言った。ダメだという理由がさっぱりわからない。なんと感情的で、勝手な父親だろうと、思ったりしたその後、少し落ち着いて父の心情を考えてみて、おぼろげに父の心がわかってきた。


母親は自殺 子どもをもっと抱きしめてあげてください。 母親は自殺

子どもをもっと抱きしめてあげてください。

母親からするとまだまだ危なっかしくて仕方なく

そのなかから、商社の中間管理職で札幌に単身赴任していたAさんの大学受験を控えた長男との関係が悪化したのは、Aさんが休暇で帰宅した時のことだった。まずAさんは自分の部屋が無断で長男にあてがわれているのを知る。そして、些細なことから親子喧嘩になると、受験だからという理由で凄はAさんに我慢を説く。いつしか家の中の主導権は長男に握られていく。長男はたまに帰ってくる父親をバカにしだす。
父子関係が決定的に逆転したのは、札幌から東京勤務に戻った時だった。
がって、Aさんの部屋は明け渡されない。
長男は一浪电したある日、テレビのチャンネル争いから長男と取っ組み合いの喧嘩になった。そこへ凄が飛んできてAさんに自制を求める。そして手をついて謝れという長男に、Aさんは言われた通り謝って
しまった。
現在、Aさんは帰宅拒否症でクリニックに通院している。
クリニックの院長の説明によると、Aさんは温厚な性格で、なるべく丸く丸くおさめようという気持ちがあって、軽く謝ってしまったのではないかという。

子どもがどうしてこわがるそして、そのことで息子はますます増長し、父子関係は完全に逆転してしまった。
院長はAさんに荒療治として、息子との徹底的な殴り合いを勧めている。いくら殴られても、子が手をついて謝るまで断固として闘う。体力的にはかなわないが、最後までやめないことが、親の復権には必要だとしている。
息父また反対に、父親が厳格すぎても問題が起こる。
一九八○年、息子が両親を金属バットで殺害するという事件が起こった。このむごたらしい事件は、被告が浪人中の受験生であるのに対して、父親は雲の上の東大卒という一事だけでもおおよその察しがつく。すなわち、父親は完璧で一点も非のうちどころのないような存在として息子の前に立ちはだかっていた。おそらく、人間的なふれあいは皆無に近いほど少なかったのではないだろうか。

  • 育てたときの気持をもちつづければよいのである。
  • 幼稚園で遊んでいる
  • 小学校低学年のうちは丸つけをしたり音読を聞い

高校受験の時は七十

中学校が思春期の難しさを背負う義務こういう父親の前では、子どもは息がつまってしまうのだ。
父親には当然、父親としての威厳がなければならない。しかし、昔の修身の教科書に出てくるようなオヤジであってはいけない。威厳八割、人間味二割くらいが妥当なのではないか。
オヤジもやっぱり人間なんだと子どもが感じていれば、金属バット殺人事件も起こらなかったかもしれな父親の理想像というと、わたしは鮭のオスを思い出す。
精神病院協会の仕事で盛岡に行ったことがあった。盛岡の町には有名な北上川が流れていて、市内にはその北上川に合流する中津川という川が流れている。
川にのぼってくるのを見た。
私はその橋の上から鮭が産卵のためにご存知のように、鮭は溯河性の魚で、産卵の時期になると自分の生まれた川に戻る。

子育てにも大きな影響を持ってきます。上流まで川をのぼって行くそのとき、オスはメスにしっかり寄り添うようについている。男性が女性をエスコートしている姿だ。そして、メスが卵を生むと、オスはその卵に射精して受精させる。それが終わると、ほとんど死んでいく。
死が目前に待っているのに、鮭は傷つき、苦労をいとわず、子を生みに川をのぼる。
はとくに父親のあり方というものを教えられるような気がした。
この姿に私それは、男は黙ってすべきことをする。いざとなればよれよれになっても、家庭のために全力をふりしぼる。自分のその苦労が子には伝わらないことは百も承知だが、ひたすらすべきことをする。

大学の教授

天から命じられた自己の義務を果たす、ということである。
自然の摂理といえば自然の摂理以外の何ものでもないが、父親とはこのように厳しいものではないだろうか。わたしは父親の威厳とは、そういうものだと思っている。
子どもに尊敬される父親とは
-子どもの前で妻から立てられる父親に子どものしつけや行儀作法や食事の仕方などのマナーに関しては、わたしは女房任せであまり口出しはしない。女房のほうもわたしに口出ししてもらいたくないらしい。父親が口出ししなければならないときは、できるだけ口数を少なく重みをもたせたいということらしい。あまりペラペラ喋るより、ひと言ズバリと重みのある言葉を言えと女房はわたしに言っている。

子どもとふれ合う

母と同居しない家庭が多い。どうもそのほうらしだからわたしは子どもに箸の上げ下ろしまで干渉したり、口出ししたり、そういうことは家ではやらなかっう。ただ、他人様に迷惑をかけるようなことはするなとは、父親として言ってきた。これは父親の責任でもあるカ--たこまごまとしたマナーなど教えるのは、むしろ母親の責任においてやるべきだと思そうかといって、子どもにとって父親が雲の上の存在で手の届かない存在であってはいけないまた、触れればスパークしてヤケドするような存在であってもならない。


子どもがどうしてこわがる 高校くらいは卒業していないと困るといった考え方 母の女の生甲斐であった。

高校くらいは卒業していないと困るといった考え方

子どもが動かなくなるどころ

ケンカを通して彼らなりに社会わたしは中学時代、修学旅行の途中で大出血を起こし、列車を臨時停車させてしまったことがある。恥ずかしい話だが、その出血の理由は、旅行の前に級友とケンカをし、殴られて鼻の血管を切ったことであった。
ケンカの理由は、今となっては思い出せないきつとわたしが何か怒らせるようなことをしたのであろう。あの時の痛みはたまらないものだったが、わたしは殴った友達を憎むとか恨むというよリも、むしろわたしのほうが悪いという気持ちで一杯だった。
というのも、彼はわたしが当然よけるものと思ってパンチを出したにちがいない。しかしどうもわたしは運動神経が鈍く、そのうえぼんやり型で、実に見事にパンチを食らってしまった。

中学から高等おそらく、出血のすごさを見て殴ったほうがびっくりしたのではあるまいか。しかし、当然ではないことをして不必要にことを大きくしたのはわたしである。当時の中学生のモラルでは、この場合はむしろわたしのほうが悪いことになる。
すでにちょっと触れたが、わたしは耳鼻科の医者がとめるのもきかずに、修学旅行に参加した。
夜行で東京駅を出発したが、静岡あたりで再び出血が始まり、こんこんと止まらなかった。伊賀の上野にさしかかった頃、胃の中にたまった血液を大量に吐き、気を失って緊急下車させられた。その時の騒ぎは、今でも思い出すたびにアブラ汗が出るこれがもし現在の中学校だったらどうであろうか。ケンカでわたしが出血した時点で大問題になるのは間違いない。殴られた側が学校や殴った生徒を相手どって訴訟を起こすかもしれない。学校側は、ケンカ両成敗という基本セオリーなど無視し、殴った生徒だけ処分するだろう。また、殴られたわたしが修学旅行に参加することなど許すはずがない。
しかし、当時はそういう動きはまったくなかった。先生にはひどく叱られたが、問題はおおげさにならなかった。お陰で、わたしは友達も失わずにすんだ。わたしを殴った友達とは今でもときどき会っている。

  • 育てているでしょう。
  • 大学をとても受ける気力がなく
  • 母さんはどんな夢が見たい?

子ども自身でもありません。

子育てという夫婦ケンカとは、元来きちんとしたルールにのっとって行なわれるフェアな行為で、最近のいじめのような卑劣なものとは根本的に性質が異なる。文部省などはそれに気づいたのか、けんかのすすめという小冊子を出しているほどだ。
考えてみれば、親や学校をとび越えて役所がケンカをしなさいとすすめること自体おかしいが、本来教えるべき父親がケンカ道というか、ケンカのルールを教えていないのだから仕方がなぃ。
わたしなりにケンカのルールを簡単にあげてみよう。まず、ケンカは正々堂々とやれ。ケンカは1対1が原則。ケンカは素手でやれ。相手に反撃の機会を与えろ。真正面から勝負しろ、最後までやるな、といったところだろう。ケンカを通して、子どもは肉体的にも精神的にも成長していくという面もあるのだ。
そういった意味で、椎名誠さんのプロレスごっこは上手いやり方だと思う。ケンカのルールを子どもに体得させるだけでなく、父と子のコミュニケーションも図れ、一石二鳥というべきだろう。
父親は気遣いと頑固さを使い分ける
-時には父親から子どもに共通の話題をつくれ父と子のコミュニケーションをどうやって図るか、というのも重要な命題である。わたしはいささか怖い思いをし、お説教をされて育ったので、お説教は好きでないおおげさに言えば、拒否反応がある。

子供は親の姿をうつす鏡ですしたがって、子どもに説教をしたことはほとんどない。
食事などで顔を合わせるときの話題は、結局趣味のことになる。共通の話題をしゃべっていることが、コミュニケーションの基礎である。むしろ、そのほうが親にも安心感があるし、子どももおそらく同様であろう。日本人同士の挨拶はほとんど天気のことから始まる。この話題が最も安心感があり、お互いの利害とは関係がない。
子どもも大学生くらいになると、そんなに気を遣わなくてもいいのだが、中学生から高校生ぐらいにかけては、不安定な時期なので、父親としてはある程度努力する必要があるだろう。中学生の子どもに株の話など本人と無関係な話をしても仕方がなし。やはり父親と子の対話というのは共通な線を持たなければいけない。子どもは社会が狭いので、学校の話とか、プロ野球の話ぐらいしかできないのであるから、父親はそこへ自分を合わせる必要がある。ただし、これは父親が子どものレベルに身を落とせというのではない。
それが父親としての一つの努力で、あまり知識がなくても、うまくそれに合わせるようにするのが大事だ。そのためには勉強しなければならないこともあるだろう。

子供のノート

野球のヤの字も知らない父親でも、新聞のスポーツ欄ぐらいに目を通して、選手の名前の一人や二人は知る必要があるだろう何もそこまでやる必要はないのではないか、という人もいるかもしれないが、子どもがある年齢になるまではそのようなことも必要ではあるまいか親子の精神的絆をつくるには、そこから入っていくべきだ。
父親が努力をするほうが、しないよりはるかにいい。
子どもと共通の話題を持つようにやす-父親は易きに雷同しない姿勢を保つテレビはよくないと人はいう。タレントの加山雄三さんも、同じように考えたのだろう。テレビについて、こう、言っている。

ぼくはテレビについて考えるところがあり、わが家の育児は子どもにはテレビを見せない
からはじまりました。

教育するのか知識を教える

子どもが欲求不満になっている第一、忙しい父親が帰って来ている、あるいは日曜日に在宅しているというの子どもがテレビを見ているなどはよくないことです。だからぼくは子どもたちに、家では絶対テレビを見せませんでしたところが、子どもが幼稚園に通うようになって、問題になったのです。お宅ではテレビを見せないのですか。お友だちと話が合わなくて困っているようですよ。父母会で言われました。なるほど、そういうこともあったんだな。幼稚園の目的は集団を知るところにあるのに、友だちとコミュニケートできなくては、それもまずいよなあ。夫婦で出した結論は、ビデオテレビを買うことでした
子どもたちが集中的に見ている番組をビデオに撮る·ぼくがいなくて、女房が家事をしている時間帯に見せる
子どもはテレビを見たことになり、友だちとも話ができる


中学から高等 中学から高等 母子がいっまでも密着しすぎている

子どもの生活

勉強をしてもらいたいという

父が普通の人よりはるかに敏感な感受性を持った人だとすれば、青山にどうしても行きたくない理由は、純粋に感情がもとになったのではなかったかと考えられるのだ。父にとって青山はあまりいい思い出の土地ではないのではないか。ヨーロッパから帰ってみれば、病院は焼け跡になっており、高利貸しに借金までして大変な苦労をしてやっと再建する。しかし、精神病院の院長というのは悩みや心労が絶えることがない。何かあれば役所に呼びつけられて、小言を言われる始末書は取られる、管理体制がなっていないと叱られる。
その間に友人の芥川龍之介が亡くなる、島木赤彦が亡くなるなど、いやな思い出ばかりだ。そして、とどのつまり営々として再建した青山と世田谷の二つの病院と自宅が一夜にして戦災で灰になってしまった。

高校くらいは卒業していないと困るといった考え方父はとうとう焼け跡を見ていない。昭和二十二年に疎開先から東京に帰ってきてから、がすすめても青山を見に行くことはしなかった。見るのがいやだったにちがいないわたしいま考えると、父は動物的な感覚の強い人だったと思う。病院の経営に関する細かいことは副院長、事務長に任せきりだったが、基本的な先を見る感覚はひょっとするとかなり鋭かったのではなかったかと思う。もし父が賛成して、わたしが青山に病院を再建していたらどうなっていただろうかと思う。
入院患者は別として、通院にあまり交通の便がよくない。青山通りからだいぶ入り、高樹町からもずっと奥に入る。裏手は青山墓地だ。現在は環状四号線が下を通っているが、それが出来たのもオリンピックのあった昭和三十九年のことだ。周囲の道は、わたしの子どもの頃はなかなかの道路だと思っていたが、今見ると一方通行の狭さである。住宅地としてはいい場所だが、病院を経営するところとして、果たしてよかったかどうか疑問である。今の四谷を選定したのは父であるひょっとすると父はなかなか先を見通していたのではないか、と思うゆえんである青山はいやだと父が言ったあと、わたしは世田谷に住んだ。

  • 父親が解決のために積極的に乗り出してくれる
  • 父親をほめたら次
  • 子どものうちから習わせたほうがいいです

子どもに代って取り戻す努力

母親が何をさしおいてそして市ヶ谷とか、京王線の明大前、品川など、ずいぶんあちこち見て歩き、将来の拠点を探していた父はどこを見てもダメ
と言って首を横に振っていたが、今の四谷に来たら
いいぞと言った。このひと言で決まった。
ある著名な学者の住まわれた土地だった。お蔵だけ残る焼け跡だった。その先生は自分は今後は官舎住いでいいと言われ、その土地をいただいたわけである。今考えてみると適切な判断だったととにかく、四谷から明治神宮外苑まで全くの焼野原で、さえぎるものは何もなく見通せる。当時は車一台通るでもなく、都電はたまに通っても家の前の停留所は廃止になっている。売家や土地を見ても、わたしはどうも見てくれについひかれてしまい、最初は、こんな場所で、と思ったが、今になってみれば、こんな便利な場所はない。道路は広い環状四号線に面している。青山に再建していれば、今ほどの発展はなかったかもしれない。父の動物的なカンに感謝するばかりだ。そしてこがその後東京郊外に病院を発展させていった拠点となった。
昭和二十二年に父が東京に帰って来て、すでにわれわれが住んでいた世田谷の家に合流したラバラになっていた一家がまとまったわけであるその後、父のために必死に頑張って、戦後の困難な時期に箱根の別荘を人手に渡さないですんだとき、父はすでに箱根に行くだけの体力はなかった。

学校の間を往復するだけですそして昭和二十八年に四谷で死んだ戦後は、もう好々爺という形容が父には似つかわしかった。父の鋭さ、恐ろしさはすでになく最晩年は好きな鰻を人からもらえば、ただ子どものように喜んでいる父であった
父親の威厳が家族を支える
-家では影が薄くなった現代の父親家には一人こわい人をつくっておかなければいけない
が、,父親のことを言っている。
文化人類学者の中根千枝さんの祖母よく言っていた言葉だそうである。
もちろんここでいあるじうこわい人とは、一家の主ところが、戦前と戦後の民法の違いが、戦後はだんだんと父親が弱くなってきた。
この第一の理由としては家の崩壊がある。
決定的なものになった。

体験しないわけにはいかないそのうちやがて

旧民法第八七七条r子ハ其家11在ル父ノ親権ニ服ス
現民法第八一八条r親権は、父母の婚姻中は、父母が共同してこれを行う……戦後は男女同権の立場から、戸主制も廃止され、親権も父ノ親権から父母共同
に変化した法律的にも社会環境からいっても、当然戦前、戦中の父親のように家長権を行使する条件が、戦後なくなってきたということである。家族という単位一つ取り上げてみても、核家族化が進み何世代もが同居するという家庭が少なくなった従来は大家族で、父親というのはピラミッドの頂上にあって裾野がずっと拡がり、父親自身も偉いと自分で思うが、周囲もまた自然に盛りたてた。中根千枝さんが、インドで三十人五十人の大家族の家長に何人か会ったとき、父権という言葉が本当にぴったりする父親であったという。つまり大家族の頂点、としての責任感と包容力が父親の人物を大きくするのであろう。
二つ目には、現代の父親は家にいる時間が昔の父親より少なくなってきたこともある。

教育についての国際比較調査を行いました。

母さんがやってきてくれる戦後の高度成長期前後から、日本は完全にサラリーマン社会になったと言ってもいいだろう。サラリーマンというのは、自営業の人と違って一日中家にいるわけではない。むしろ職場にいる時間のほうが家にいるより長かったりする。自ずと子どもとの接触が稀薄になるまた、今までは自営業は住いと職場が一緒になっているのが普通だったが、このごろは自営でも通いの人が増えてきた。たとえば、開業医がそうである。診療所など、以前は職住が一緒というのが普通だったが、近頃は通いのケースが多くなってきた。ビルのクリニックへ自宅から通うケースいわばサラリーマン化だそういう人が増えてきた、ということで父親がサラリーマンはもちろん、普通の自営業の人も、家にいる時間が大いに減ってきた。
父親が外で働く時間が増え、そのギャップを埋めるために、た母親の力が強くならざるを得ないことになった。


高校くらいは卒業していないと困るといった考え方 高校時代に少々野球をやりましたが雨の日監督 高校時代に少々野球をやりましたが雨の日監督

母の女の生甲斐であった。

子どもたちを三名ずつの二つのグループに分けた。

経済的にも時間的にも余裕が出てき子どももせいぜい二、三人だ。子育てのウエイトが母親のほうにかかってくれば、母親も自然と責任を重く感じるようになる。お父さんは、子どものことについてあまり口出ししないでというようなことになる。物理的にも心理的にも母親は家の中で、昔とくらべるとずっと強くなり、自信を持つことになるひいては、知らず知らずのうちに父親を軽視するような態度になってくる。
きというものだ。
これは自然の成りゆ昔の父親は確かに力があるように見え、外面的にも威張って見えた。

子どもに辛抱させようと思っているその偉さの一面は作り上げられた偉さでもあり、その結果、父親自身も自らが偉いと感じるようになった。
昔は、家族がいる限り父親がいきなり玄関に出ることはなかった。
子どもなり、お手伝いさんか誰かが代行してお取り次ぎします
と言ったのである。
それだけでも、何となく偉く見えた。
今はそれを代行するものがいなくなったので、玄関にいきなり父親が出て行くというわけで、欠点も、隠しておきたいことも全部あらわにさらけ出されてしまう。そういう状況を凄も、子どももまのあたりに見てしまう。昔の父親でも、ワンクッション置かないで、すべてが直接さらけ出されてしまえば、なんだこんな父親だったのかと思われかねなかったかもしれない。

  • 高校時代は徹底的に遊び徹底的
  • 母さんの姿は見る目に快いものです。
  • 勉強できる。

育て方をしておいて

勉強は三十分しかしてないそのワンクッションが取り除かれてしまったのが現代の姿だ。核家族になってから、父権の防御線がぜい弱になってきたのだ
このことは、精神科の患者が表面的に増えたことにも通じる。昔の大家族だったら、軽い病気などは家族の間にうまく溶け込んでしまって、それなりに対応できたのである。自然にみんなで包容してやり、あまり大事に至らずにすんだし、本人も心理的にそれに対応することができた。
ところが、いま三人か四人の家庭で精神科の患者が一人出たらどうなるか。家族はただあわてふためくばかりで、適切な手ひとつ打てず、仕方なく病院に頼ることになる。そのために、たいそう患者が増えたように思えるのである。

子どもは大人になるためのひとつの段階ではない。-家族がお互いに名優になればうまくいく父親の権威の回復はどうしたらよいか、という問題があるが、それには、父親自身が意識的に努力するというのが基本線だ。しかし、周囲でつっかい棒をするというか、肥しをやることもまた大事なことだ。周囲で父親の特権を援護し、もり立ててやらねばならない。それを母親が父親をけなして、父親の代行という顔をして得意げになり、いい気持ちになっていることは感心しない。結局これは母親が自分自身の首を締めることになる。決して利口なやり方とは言えない。
やはり、父親をみんなで守り立てて、いかにも強そうに見せるのがよかろう。たとえ張子の虎でも、いいのだ。

学校を出ることが偉くなる条件だ

そのように周囲でつっかい棒をするということは、結局は自分たちの自己防衛にもつながることになるわたしは人間同士のつき合いは、お互いが名優になることによって、うまくいくのではないかと思っている。同じ屋根の下に住む家族とても例外ではない。家族もみなお互いに名優にならねばならぬ。一家のつき合いもまた一種の芝居であるからである。芝居といってもいいし、また化かし合いといってもいい。
姑はヨメを天下一のヨメだとおだてればよい。
は夫をほめたたえればよい。
夫は凄に、たえず愛の言葉をささやけばよい。
凄これでお互いが満足して万事うまくゆくはずだ。

母が家にいるという

子供をほめるだが、人間はそれほど単純ではないし、心理的抵抗がこれを阻むから、そう簡単にことは運ばない。第一、人間にはプライドという厄介なものが宿命的に存在しているからめんどうなことになるまあ、要するに、その抵抗を排除して、ドラマをどの程度、推し進め得るかが問題なのだ。
原則として、お互いの欠点をあばき立て、それを追及し、責めるより、お互いの長所やいい点をほめ、たたえ、おだてたほうが、人間は心安らぎ、進歩の道をたどる錦鯉は長命だそうである。公認世界記録はわが国、白川郷のそれで何と二百五十三年ということだ。これはエラかどこかに、樹木でいえば年輪のようなものがあってわかるのだそうである。その道の人は、鯉の長命は、怒らず、ケンカせずからきているという。鯉は十日も餌をやらなくても、あせらず、イライラせず悠々と泳いでいるだが、犬の寿命はたった十六年くらいだという。犬はよく吠え、だし、この説は鯉の好きな人から出たものだからアテにならないよくケンカするかららしい。
た-父親の威厳は強すぎもせず弱すぎもせずが大事四十代、五十代のサラリーマンに帰宅拒否症
が増えてきているという。これは勤めが終わっても家に帰りたくないという心の病で、本田靖春さんが現代一九八九年四月号でルポをしているので引用させていただく。


子どもに辛抱させようと思っている 母子がいっまでも密着しすぎている 子どもがどうしてこわがる

成長の限界につながってしまう可能性もあります。

大学卒って言ったって

双方の感謝や喜びにならない仕事がありすぎるようだと、その社会はゆがんでいるのだといえるのではないでしょうか思春期は心身の成長発達がいちばん激しく活発な時期で、つまり、心と体の変化が自分でも驚くほど大きくて、それがまたどの面も一様に変わっていくのではない、ある面だけが急に変化するというバラツキやムラがあるために、心にも体にも平衡感覚が保ちにくいところがあれこれと多い。
当人が面食らってしまうのですね。
自分だけがなぜ、どんどん目立って背が高くなっていくのだろうとか思うとき、が気になってたまらない。
そのことばかり実は骨が伸びるとそれだけ動きが強く大きくなるのに、筋肉はそれに伴って強くならないのでアンバランスが生じて体の故障が起こるということもありがちです。

指導の専門家に任せるのが正解

それでむしろ
弱くなったと自身があわてたりするのですね。
また、世の中の不合理や不公平について考えはじめると、頭がいつもカッとしてしまいます。ずるいことをして大儲けする人がいる一方で、誠実に働いても働いても生きづらいという人たちがいる。そういう不公平·不平等に、とても無感覚でいられないのが、思春期の心の特徴といっていいでしょう。ものの動きについ今の反射神経で対処しきれなくて、友だちとのやりとりについていけなくなったりするものです。
あれやこれやで、自分の心と体のいろんな面の不調やひずみが気になってたまらない。今まで考えたこともないことを考えて、結論が出なくてうんざりしたり、感じたこともない自分の弱点が気になって、人の目を気にしたりする。
自分と他人を比べて、いろんな点で自分だけ違うのではないかと気になってたまらない。
そういうときの子どもの目は、むしろ物事を鋭く正確に見抜いているものです。

 

子どもにへりくだることがどうして

幼稚園に通うようになって問題になったのです。子どもの生活

私は、あらゆる階層あらゆる職種の人たちが、どの程度自分の今ある位置づけに満足と感謝を抱くかが、社会の文化の高さ低さなのだということ……平生からそのことを思い続けています不当な搾取や横着なひとり占めのない、が大変なことです。
私たちの住むこの国は結構工夫の上に工夫を重ねて、労働と報酬の公平な分配ということは、とてもじゃない一億二千万余という地球人口の約五〇分の一を擁する世界有数の大国にしてはいい線をいっていると思います。

子どもの何かに役立つと考えてのことでしょう。とはいっても、世の中、具体的に見ればいろんなゆがみ·ひずみがいっぱいです。一般に、子どもの時期を脱してちょっと世間が見えてくる頃、つまり思春期には、腑に落ちないことや、わけのわからないことだらけに思えてくるのですね。
かくあるべしと学校や親が押しつけてくる規制,規約に、了解できないことがありすぎるし世間のいろんな現象を見ると、逆にしたい放題の出鱈目がまかり通っている現実というものがれもまたありすぎるように見えることでしょう。
でたらめけんたい思春期は、感情の起伏や倦怠、閉じこもりや逸脱行動など、あれやこれやが無秩序,無節操にあふれ返りがちな年代で、見守る親は泡を食ってしまうのですね大変な時期が過ぎてしまえば、いったいどんなことであったのか、はようやく息をつくことができる。
母さんなど
母さんなど

しつけをしましょう江戸時代には江戸時代

しつけをしなければならない。全体が見えてもくるので、親渦中にある間は、この子はなにもかも総崩れに壊れてしまったのだ、しがれたりして、それは大変なものです。
というような絶望にうちひ結局、人間、落ち着いて暮らせるのは世の中ってまあこういうものさ。人生なんてこんなものだろうという一応の納得というか、心のおさまりができるからなのですが、不安定な思春期の頃の思いというものは、到底そんな納得なんかできるはずもなく、なにもかもが腑に落ちないことだらけなのです。思春期の目線で大人も一度、一緒に世の中を見直す必要があるのですね。
責めたい気持ちをぐっと抑えて言っても言っても、こちらの言うことはなにも聞かない。
なにもかもいい加減で、学校のことなどはすべて放りっぱなしになってしまっている。

子供はちゃんとそれを感じています。

こんなままで黙っていてほんとうに大丈夫なのかしら?と、親は心配で心配でたまらない。
こういうときの親の態度についての鉄則!それはどうしてこんなことになったの?
だの、いったいどういう気?
だのと感情的な問い詰めでむかつかせたりわが子をなじり倒さないこと。それでは単に、すねさせたり、反抗,反発の言動を起こさせるばかりですからねひねくれさせたり、本人の行動を責める前に、世の中全体を子どもの目線でクールに眺めてみるのです。あまりにもいろんな点で世の中は不公平で、いい加減で、だらしないのですからねえ。
どうしてこんな不合理がまかり通るの?と首をかしげざるを得ないことばかりですからねえ。子どもの価値を創造していこうという気持ち


子どもの生活 成長の限界につながってしまう可能性もあります。 幼稚園ではどうか?

母親は自殺

父親よ強く

子どもの前で母親が父親へ命令する場合、えてして夫の悪口になることが多い。グズだとか、男らしくないとか、つい口にするものだ。これは子どもに対して大きな悪影響を与える。いよいよ父親の権威が地に墜ちる。くどいようだが、子どもの前で夫の悪口を言うことは、母親も自分自身の首を締めることになりかねないのだ。それを防ぐためには、父親も威厳を持たなければならない。
威張るというのではなく、家族に対する責任感を持ち、それなりの人格を備えることだ。夫の悪口を言う凄も悪いが、言わせる夫もだらしがないのであるつまり、子どもにとって父親たる姿を見せるためには、凄の協力が不可欠ということでもある。
そしてそのためには、夫たるもの凄の協力を得られる夫たりえなくてはいけないのだ。

中学二年の秋

父親は心にゆとりを-悩みを忘れるために歌の道へ進んだ父父·茂吉は歌人として、二回の全集につづいて、今なお新たに選集が刊行されるなど、人びとに愛されていることはまことに有難いことである。この父の才能とその成果はどこからきたものなのだろうと、ときどき考えることがあるそれには、まず、素質と環境を取り上げるのが妥当だろう。文学者のみならず、に達するには、素質が必要で、それに環境が大きく関与してくると思うあるレベル以上文学や芸術は暖房完備の温室の中からは生まれない。お金もあって、いい奥さんがいて家庭も幸福で、子どもたちは親に少しの心配もかけず、社会的にも出世して何の苦労もないという
温室には、芸術は育たないと思う。
いみじくも松本清張さんがおもしろい言葉を述べている。悪妻が文豪をつくるという言葉だなかなかうがった言葉だ。

 

子どもの心に届かない習性

母は働かなければならなかった。子どもをもっと抱きしめてあげてください。

生前、わたしの母は父の同情者、ファンから悪玉女だといわれていたらしい。もちろんその反論はわたしにあるが、とにかく世間にはそういう批判があるようだ。森鴎外夏目漱石のファンは、同様に、その夫人を悪凄だと言う人がいる。なぜそのように言われるのだろうかわが家の場合第一に、父が養子の身であり、養家に遠慮があったということ。母は家つき娘でわがままいっぱいに育っている。もともと次女なのだが、長女が早く死んだので、まるで長女のごとく育てられた。

母さんは一生懸命にそんな自分性格も強く、本当は女に生まれないで、男に生まれるべき人だったと思われる。その証拠に、祖父は、
おまえが男だったらなあと、しょっちゅう洩らしていた。代議士までやった祖父に頼りにされるほどの実務的なタイプの母だから、文学的な父とはウマが合うはずがないまさに正反対、水と油の性質だ父にとって、決して家庭は楽しいところではなかった。そういう悩みや苦しみが、よけい芸術に没頭させたとも考えられる。さらに、おおげさに言えば、悩みを忘れるために歌の道にのめりこんでいったとも考えられる。これが要因の一つであろう。もともと素質はあったと思うが、人から勧められてやったのではなく、あくまで自ら選んだ道なのであるこれは自分でも書いているが、正岡子規の本を神田の古本屋で手にとってペラペラとめくったとが、歌詠みの道を歩むきっかけになったと言われているが、これは本人のみが知ることだろう。
子どもや妻を前に話してみる。
子どもや妻を前に話してみる。

成長してきた女の子

子どももつい愉しくつられています。麻薬中毒が最初の一本の注射で決まるというのと同じだと言えば言えないこともないが、真相はわからない子規の本を手にとったときが、麻薬中毒でいえば最初の一本であって、素質的なものがあったからこそ、急速にそれに惹かれたといえばドラマは成り立つ。歌をつくっていれば、悩みも忘れられるということから、どんどんエスカレートしていったのではないか、とも考えられるがこれもあくまで推測に過ぎない。
-趣味が心の余裕をつくり上げる父が晩年、戦争のために疎開した先は山形の豪雪地帯という気象条件の厳しいところだったが父の一生のうち最も心の安らいだ時期だったのではないかと思う。病院は空襲で燃えて、心をくだく仕事はなくなり、周囲は故郷の人ばかりで気心は知れているし、故郷の言葉も気楽に喋れる。多くの人々の親切で、最低の生活は保障されている。心おきなく自由にあたりを散さくし、自由に歌もつくれる。この時期が父にとって最も心の安定したときではなかったかその証拠に、父は絵を描き出している。

子育てにも当てはめてしまう

父は三男坊だったから職業の選択は自由だった。
の頃は将来なりたい職業は、坊さんか絵描きだった。
子ども坊さんというのは、父が子どもの頃教えを受けた和尚さんのことが頭にあったのだろう。生家の隣りがお寺で、その住職は窿応和尚といって、父が漢文をはじめいろいろと教えをいただいた方である。小学生のころすでに論語を素読出来るほど、その和尚さんに薫陶を受けた。精神生活の恩師といえたもう一つ、絵描きのほうだが、父は子どもの頃から絵を描くのが好きだった。
凧絵を描いて、そ
はれを売って、小遣いにしていたほどで、当時の凧絵が今でもたくさん残っている。父の日記には絵がたくさん登場する。小学校三年生のとき担任


子どもをもっと抱きしめてあげてください。 写真館で卒業写真を撮りたいなと思う 成長の限界につながってしまう可能性もあります。

母子がいっまでも密着しすぎている

学校だけにはとても任せておけない。

言わなくても文章に書いたり、俳句にしたり、短歌にしてもかなりの効果がある。会社の帰りに一杯飲んで仕事のグチを言うのはいい。だが、仕事のグチはあくまで同僚の間で交されるべきものだ。
今やまさにうつ時代だ。WH0世界保健機構は世界人口の三パーセントがうつだといっている。アメリカでは年間実に八百万人がうつとして治療を受けている。日本もまた例外ではない。
ビジネスマンの1-1パーセントほとんど十人に一人がうつで、内科受診者の十分の一がうつだという。会社でせっかく出世しても昇進うつ病などという昇進してうつになる奇妙なメカニズムも出始めている。やっと勤めを終わって定年退職するとまたうつが待ち受けている。ビジネスマンの精神衛生的管理は現代的な命題の一つとなっビジネスマンはこういう苦労のなかに必死に生きようともがいているが、家庭の中に、会社の不愉快なことを持ち込むことはできるだけ避けるべきだ。

父親の方が話し出す場合が多く

そのために中間地帯というものが存在していい飲み屋でも、麻雀屋でも、スポーツセンターでもいい。毎晩、午前さまで、家庭を破壊するようなことでは困るが、飲み屋を緩衝地帯にして、外でのウサを家庭に持ち込まないように出来ればなおさらいい。
明るい家庭にするのも、暗い家庭にするのも、の中核であることは、昔も今も変わらないのだ父親の努力次第である。
何といっても父親が家庭-父からの手紙は子どもに強烈な印象を与えるキングスレイ·ウォードのたのは記憶に新しビジネスマンの父より息子への30通の手紙がベストセラーになっ著者はカナダ人の実業家で、大学卒業後公認会計士として六年間働いた後、化学事業を興して成功した。働き盛りに二度にわたる心臓の大手術を受け、生きているうちにこれだけは息子に伝えておかねばという切迫した気持ちで手紙を書きはじめた。ビジネスマンとしての成功のためのテクニック、または結婚、友情などについても人生の先輩、あるいは友人として愛情に満ちたアドバイスを与えている
子どもから見た父親の手紙については、いてあった。

 

母が共同してこれを行う…戦後は男女同権の立場

子供の数も一人か二人小学校高学年という

故向田邦子さんのエッセイ眠る杯にこんなことが書向田さんが初めて親もとを離れたのは女学校一年の時。当時保険会社の支店長をしていた父親から向田邦子殿と書かれた手紙を受け取りびっくりする。邦子!と呼び捨てにされ、馬鹿野郎!の罵声、拳骨が日常であったから、こそばゆいような晴れがましいような気分だったという。
文中では貴方と呼びかけ、折り目正しい時候の挨拶、そして訓戒も添えられ、向田さんはそこに威厳と愛情に溢れた非の打ち所のない父親を感じたと書いているまた、亡くなった東急グループ総帥の五島昇さんは、父の慶太さんからタイ、インドに初めて海外旅行する前日、こんな手紙を受け取っている。

高校がおもしろくない《昇殿旅行中の注意一、暴飲、暴食、絶対禁止。
一、生物、生水ハ一切飲食セザル事。
一、睡眠ハ必ズ,八時間以上トル事、従ッテ就床ハ必ズ十時以前ニスル事。
一、ゴルフヲシテモ、ゴルフ場ノモノヲアマリ喰ハナイ事。
一、ロスト·ボールヲ探シテ
ラフ﹂ニ入ラナイ事。ラフニ入レバ毒蛇ニカマレルノ憂ヒアレhho五島慶太さんは強引な企業買収、超ワンマンで強盗慶太の異名で世におそれられ、事業に専心しすぎてあまり家庭をかえりみることがなかったと思われている。めったに息子に手紙を書くなどということはなかったというが、まるで指令書のようなこの手紙にはこぼれるほどの息子への愛情がにじんでいる。
このような普段見せないやさしさが、えて離さないといっていい。
いじめられるわということであれば
いじめられるわということであれば

子どもが満足するはずがない。

体験をしていれば手紙だからこそ父親も表現でき、それが子どもの心をとらもし、手紙をうまく書く自信がないというなら、他の表現方法でも構わない。たとえば、述べたが、わたしの父が、一九二三年、ミュンヘンの留学先から詠んだ歌を送ってきた。

街上を童子等互に語り行くペン尖1つ五十万マルクするよ前にもかたみさき第一次大戦後のドイツが大変なインフレの時期で、たしかビールのジョッキ一杯が何百万マルクもした時代だ。
カバン一杯のマルクがビール一杯でなくなった
と書いてきたのだった。
父は
すごい状態なんだなこの表現が、ということを非常にはっきり感じさせると同時に、大きな感銘をも与えたのはいつまでもなかった。
このように、父親は子どもに
それとなくわからせるということを心掛けるべきだと思う。

先生たちはだまっていたのだろうか。

子どもが親もとを離れたとき、旅行に行くとき、または自分が旅行に出かけるといったような折りに普段はなかなか言ってやれないことを手紙を手段に子どもに伝えてやるのも親の務めではないかとわたしは思う最後に、ビジネスマンの父より息子への30通の手紙から引用させてもらおう。
三十通目は第一通目から約二十年後、息子に会社を譲る際に書いた手紙である。息子は父親に役員としてとどまるように説得するが、著者は近い将来はともかく、健全で、賢明な、長期的な計画すなわち会社の成長のプラスにならないと、引退を表明する
そういうわけで、いつもの君のユーモアと忍耐力と勤勉さで、会社を経営し、成長させて欲しい。
私たちは今後も私的にはたびたび話し合いの機会を持ち、宗教や政治の問題を論じ合ったり、検討したりするだろう。ただ、君と経営方針を練ることは、金輪際しないつもりでいる。中略父さんは長年打ちこんできた事業からどぅして手が引けるんだろう!という君の心配は無用であるまず第一に、君のお母さんがこの二十年間に冬の休暇を楽しんだのは11回でしかない。私はこの数字を書き換えようと思う。母さんも心得


小学校高学年という 幼稚園ではどうか? 小学校高学年という

子どもに辛抱させようと思っている

子どもが好きなのです。

中略そういうわけで、私は人生を楽しむことになるだろうそして、心憎い最後に著者は君の父親であったおかげで、すばらしい人生だった
と結んでいるのが父親とは、子どもにとってどういう存在であるのか、世のオヤジたちはそれぞれに悩んでいる,
とであろう。父親が子どもに残してやれるものとしては、すぐに財産や会社など形のあるものが思いつくかもしれないが、それ以上に、子どもの心に何を残してやれるかが問題である。それは日常の生活態度、時にさりげなく示す子どもへの気遣いなどから、子どもに伝えられるものである。
人間である以上、子どもに対しても決して間違わないということはなかろう。しかし、わたしは父親たちよ、自信を持って生きようと言いたい。父親が自信を持って生きる姿が、子どもに生きる自信を与えるはずである。

なぜ心が揺れるのか

相談から二年が過ぎて届いた手紙カウンセリングという仕事は、相談はありません。

母親にはなかなか実現しにくい役割です。

そういう役立ち方もないではないですが、かかるものです今日相談に来られて明日効果があるという性質のもので多くの場合は効果があがるまでに月日の例えばこれは、カウンセリングから11年もたったある日に、相談に来られた方から届いた手紙です
ただし、いただいたそのままのものではなく、何例かを参考にして私が再構成したものだということをおことわりしておきます。なにしろ、相談の鉄則は、個人のプライバシーを守ることがその第一です。この本でも実例をそのまま述べるわけにはいかないのです。
なんといっても、私のところへやって来て相談したことが役に立ったのだと言ってくださることほど、私自身への力づけはほかにありません。
はや今年も日中は汗ばむ季節となりました。先生のところに三度ばかりお伺いしてからもう一年が過ぎ、あの頃、中学で不登校を続けていたわが長男は、今はとにもかくにも高校に通っております振り返ってみて、本人もそして私たち両親も、それなりの体験を越えてきたのだと思いますもっと早く近況をお知らせしなければいけなかったのに、申しわけありません。

 

子どもにとって生き方の大きな岐路になります。

母さんがみてくれなくては困る幼稚園ではどうか?

でもその一方で、こんな気持ちで出せる手紙だからこそ書く私の思いが素直にこもるのだと思えば、なお便りのできる日が来たものだと胸がいっぱいになります。
よくこんほんとうに、その節はありがとうございました。相談のすべてを録音して持って帰らせてくださった三本のテープ。何度も何度も聞きました。ご本も繰り返し読んでみて、今やっと思春期の男の子の気持ちが、自分につかめたという気がしております。
これから先、まだなにがあるかわかりませんが、当人の気持ちを親が先に立って導いていこうとするよりも、一緒になって喜んだり悲しんだりしてやればいいのだということが、よくよくのみ込めたように思うのです。
おうとげ昼夜逆転し、閉じこもり、嘔吐や下痢を繰り返し、あの頃は親も目の前が真っ暗でした。
頭で解決策を考えめぐらすよりも、子どもの辛さをわかってやること。子どもがア、親がわかってくれている!したねと気づくような親のほうからの穏やかな表現が必要と、教えてくださいまわからせよう、教えようと力むことでなくて、その違いが、まるでわかりませんでした。

教育を受けているのである。わかってみよう、感じてやれたという態度へ。
ある日の深夜です。
き、枕とふとんを抱えて、あの子が私の寝ているそばに立っているのを見たとそれまでは私とあの子の間を遮る壁があったのだとはじめて身震ったらいいのか、なんといしながら気がついたのでした。
どうしたの?
と、いぶかる声で問わなかったのですよ、先生。
テープで
質問はしないこと。ことばで答えさせるのではなく、行動を読み取ることが大切。
どう読み取ったか、こちらがそれを態度で示すこと
と聞かせてもらっていて、それがどうにも実感でわからなかったのに、その夜、文句なしにそれができたように思います。
子どもの幸せをつぶすのです流され型私たち日本人
子どもの幸せをつぶすのです流され型私たち日本人

母が働らいていて

子どもだからこそ備えている触覚もあるのです。忘れられません。
あの子の思いが、なにか少しわかりそうという気がして、入る余地を無言であけてやりました。
自分のおふとんをずらしてあの子の互いにひとこともことばはいりませんでした。
スースー寝息を立てたのでした。
あの子はエビのようになって、やがて私の脇であの夜以来、ポツリポツリとあの子が私に話してくれるようになりました。
とにかく学校に行くことだけが問題の解決だ、とばかり考えていたのが、とんでもないことだったと、それからようやく親の私にもわかってきたのでした。
思えば、先生のところに私が伺うまでの中学二年の夏の荒れ狂い。

母乳が栄養に富んでいるからと言って

あの子の精神が異常になったのではと思うほどで、いっときのひどさがおさまってからも、あの子が怖い感じでしたが、先生のおっしゃった事を憎んで人を憎まずが人間の本性だというお教えで、不安が消え、親のほうが率直に素直に振る舞えるようになりました。あの子がお母さんが変わった
と言ってくれたときのうれしさは、とてもことばに表わせるものではありません。
この手紙はまだもう少し続きます。
私は、相談は種を播く仕事だとまたしても確認し直します。
実るのは、ずっとあとなのです。子どもの違そのうえ


幼稚園ではどうか? 母の女の生甲斐であった。 子どもに辛抱させようと思っている

子どもがどうしてこわがる

子どもの進路について話し合うとき

思春期を越えていくわが子先の手紙は、次のように続いています。
実はあの子が小学五年のときまで、一家は広島に住んでおりました。
なにを思ったのか、以前住んでいた所に行ってみたいといだしました。
幸い夫の姉夫婦が向つぶこうにいるものですから、何日かそちらに泊めてもらい、さに確かめてきたようでした。
幼い年月を過ごしてきた町中を、義姉の家に泊めてもらって、朝早く出かけて行き、夕方に帰ってくる。
どこでなにをしてきたかは、一切問わないことにしていると義姉は電話で私にそう伝えました。どうにか11日間をそんなふうに過ごして、本人はもういいから帰ると言って帰ってきたのです。当人が話さないので、どんなことがあったのか、今までに私たち両親もなにも聞いてはおりません。
いとこちょうど義姉の子……あの子の従兄が大学に合格したというときで、それが当人の刺激になり、自分も高校には行くといだして、それから、ほんの少しながら、自分で勉強をしはじめたようです先生のところにはじめて相談に伺ったとき、摘されたのが、頭を働かせようとばかりしている
と厳しく指私にはまるでわからなくて、実は情けない思いばかりでした。

子どもはよい人間関係を築けます今

全面的に否定されたと思う悔しさが、親として懸命に頑張ってきたことを、れかえっておりました。
あのとき胸にあふでも、を働かすのでなくて、なのですね。心が動くと体が動く。
ほんとに先生がおっしゃったとおりだと、今ではよくわかります。
親の私が少し変わると、子どもの反応が変わる。その変わり方がどういう意味のものかと自然に気づけるようになってから、子どもへの不信や不安が次第になくなってきたように思います。
自分の心が奥深いところから温まってきて、涙腺がつーんと痛くなって涙がにじんでくる。
度もそういうことを感じて、私自身、今では頭と心の違いがわかるようになりました。

 

子どもをよく観察する

両親もまた繰り返しながら大人になったのだと知れば成長の限界につながってしまう可能性もあります。

何一年以上も昼夜逆転の生活でしたので、これを元に戻すのはどれほど大変かと案じていましたのに、その気になれば、あっけなく戻るのですね。
ときどき本屋さんへも行くようになりました。ある日ファミコン誌を立ち読みしていたら、後ろから肩を叩く子がいて、びっくりして振り向くと、小学六年のときの同級生で、自分の見ているそのファミコン誌を探していたのだということから、話が少しできたのだそうです。
一緒にファミコンショップなどに行く友だちときどき誘いの電話をかけてくれるようになり、になりましたその友だちと約束した日曜などは、さっさと朝早く起きて出ていくのですまた、早朝の自分なりのトレーニングを始めるとって、自転車で出ていくようになりました。
でもやっぱり毎日朝早く起きるのが辛くて、自分から進んで神経科に行ったものの、自分の行
って、それからむしろあの子の行動や考えがはっきりしてきたようにくところではなかったと思います先生がテープで何回も強調してくださっているように、私はあの子のなにかちょっとしたプラスの面を見つけて、それをいちいち態度やことばで伝えてやることを懸命に心がけました。

母親っていうやり慣れると体につくというか、自然と自分の口からそういうことばが出るようになるのですね。習慣ですね。
すると次第に子ども自身が積極的に自分を認める、うになりました。
肯定する、それが当たり前になっていくよ中三の二学期の終わり頃、とにかく一度学校へ顔を見せるように言われ、生徒のいない教室に、私と二人でやっと行けました。あの子は先生に、土曜の午後、ほかの「なんで休みだしたのか自分でもわかりません。
といってしまいました」
一日だけと思って休んだらそのままずるずるっと説明しました。
あれでいいのですね。
あれ以上難しい説明を、子どもがする必要なんかないのだと思いました。
あれが言えたのがいいのです。
それにしても、私たち両親にしてみれば、あまりにも大変な思春期の反抗というものであったと思います。
母親のことですね
母親のことですね

母さんにとって何よりの息抜きにもなっています。

学校へ行くことを拒否親としての私たち夫婦のあり方、学校、先生、そして生徒としての子どもの体験。
なにもかも今まで親の私が見過ごしていたと思います。
進学については、たくさんの方々の配慮で高校に入学できて、本人は一日も休まず通っています。こんなお手紙を出せる日が来たという喜びで、胸がいっぱいです。
今、あらためてお礼申しあげます。
ありがとうございました。
子どもの目線で世の中を見る相談カウンセリングという仕事にかかわり続けてきた自分を振り返ってみて、どうにかこうにかこうしてやれているのは、どうも自分の論究がすぐれているとか、先師の導きによくついていったとかいうのでなくて、むしろ相談に来られた方々の支えや励ましに勇気づけられているからだとつくづく思います。

子どもの被害が余りにも多いからです。

相談に来られてから、よほど日がたったあとで、先のような手紙を時にいただくわけです。ひとさまを支える仕事であるはずなのに、こういうお手紙をいただくことで、かえってこちらのほうこそが、ああよかった、自信を持って頑張ろうと元気が出る。こちらが支えられます。
私は相談料を頂戴して、役に立つことをさせていただくほうであるわけなのですが、のなにかを逆に頂戴しているのもまた確かですね相談料以上なにも私の仕事だけではありません。すべての仕事が本来そういうものであるはずです。母はからだをこわすからいけない


成長の限界につながってしまう可能性もあります。 小学校高学年という 子どもは親が読つい魅かれてか絵本の文字を指さして