母親もどうぞ

体験してみることによって

それが子に反映するのしてはいけないことについてはしてはいけないのだと言い切るのです。

もし隠れてやったら、どうする?
とでも親を試しにかかってくれば、つい親が強がって

どんなに隠れているつもりでも、見つけてみせるさ。
親をバカにするととんでもない目にあうなんて頑張って言うから、いつか頑張り競争になるのです。
へへへ、見つかってたまるかい
と、子もゆがんだ気張り方をしないわけにはいかなくなる。
なことになるばかりですよ。母と子には同情するばかりです教育方針なのだ

勉強したりしている姿を見ている

思春期の反発心を誘いだしても面倒そういうときは、子どもの問いにむしろ、あっけなく笑ってしまって、
隠れてわからないようにやるなら、わからないままになるだろうよ。
それで結局やり重ねて子も親もそりゃ頑張らなければもっともっと困った事態になる。
そうなるとその後始末には、と、ごくごくさらりと言っておくことですね。客観的に、いやみでなく。
ついつい気張りあいの勝ち負けにこだわりがちですが、それに乗せられない心がけが、思春期の子に対する親の大事なポイントなのだ、とつくづく思います自我
の機能がまだ不安定したいようにして満足する自分がイド欲動で、まわりに認められていると安心して満足する自分がスーパーエゴ超自我だとすでに説明しましたが、このイドとスーパーエゴは、人間生きている限り衝突し続けます。


子どもが親を馬鹿にしつつ依存する決して
子どもが親を馬鹿にしつつ依存する決して

母親の叱り方ではひと味ちがっているだろう

母と子の目が合いそこで、その両者をうまく取り持つエゴ自我という機能があるわけです。
意識してしっかり取り持とうと頑張るというのではなくて、そうとは気づかないのに、いつしか身についた配慮でエゴ自我がしっかり機能して両者のバランスをとる。しかしながら、思春期にはこのエゴがまだまだ安定していないのです。
イドがあふれるときにはあふれっぱなし。自分のしたいように振る舞うということですから、人の迷惑をかえりみない、したい放題のわがままですね。
他ところが、家で傍若無人に振る舞い、母親などを困らせる、あるいはきょうだいを痛めつけるような子どもが、いったん学校へ行くとなると、みんなに愛想よしで、ころりと様子が変わる。子どもへの声かけも必要です。学校ではスーパーエゴの出しっぱなしに豹変するわけです。なんでもいいよ。うん、そうしよう
と友だちに対して明るく、100パーセントの親切さを発揮して好感を持たれるとか、あいつがいると明るく楽しくていいやとか評される、陽性の生き生きしたことばや態度になりきって、帰ってきたらもうへとへと。
ひょうへん朝になると頭が痛いとかおなかの調子が悪いだのと体の不調を訴えて、学校に出かけづらそうで、不機嫌そのものになって動こうとしない。
そんなわが子に、親はうんざりしてしまうのですねところが、
吉田くーん!
うんざりしているときに友だちが誘いにやって来てくれて、と明るい声が響くと、おーツ
つい自分がとでも声をあげてしまいます。その後はさっさと動いて、ように明るいこと。まるで人が変わったよう。
戸口を出る本人の、なんでもなかった友だちの誘いに声をあげるまでは不機嫌なイドのかたまりになっている。

勉強の合間に時折

声をあげた途端からスーパーエゴの明るい装いにガラリと変わってしまう。
この変わり身の見事さに、親はつい当人に向かって、
おまえは二重人格ね。どっちがほんとうのおまえなのなどと不用意に問い詰めてしまうから、このイドとスーパーエゴの使い分けがかえってますます強くなり、エゴが機能しない状態になる。
「母さんにはまるで重病人のような様子でいるくせに、安井君が誘いに来たら、あんなに元気では
しゃぎながら行く。
あんな元気があるのなら、母さんを困らせないでよ。
変な子」
というような配慮のないことばに、子どもはますます自信をなくし、うっとうしくほざく。
「だって仕方がないじゃない。したくてしてるわけじゃない。そんなことを言われたら、もう今から頭が痛くなってきた。
明日こそ、もう学校に行けないと思うよ」


子どもに対するおじぎが粗末になってきます。
子どもに対するおじぎが粗末になってきます。

小学校四年位

そうやって親を脅迫してなにがおもしろいのよ……決して脅迫してるわけではないのに
だって、母さんは、とにかくおれに学校へ行ってほしいんでしょつい親攻撃へ……「だって、そりゃほしいわよ。子どもが学校へ行ってほしいわよ。親って誰もそうだわよ」親はまるでベソをかくように抗弁する
親の気持ちを満足させるために、子どもはなぜそんなに無理ばかり聞いてあげなきゃならないんだよオ。子どもの親はといえばんです。


母と子には同情するばかりです 育てるためのものともいえる。 育てるためのものともいえる。

母さんにもよくわからないけど

中学校にあって

おかしいじゃんかよさと、話がどんどんおかしなふうに横道にそれてしまいがちなのですねエゴがまだまだ不安定なので、外ではスーパーエゴ、内ではイドが強く出すぎてしまい、自分でもどうにも制御できない。
そういうわが子には、こう言っておやりなさいよ。
「友だちに対して、あれほど気づかって明るく振る舞っているのだもの。
おまえの心が疲れてし家ではまっても当たり前だよ。そのバランスをとろうとして、家でうっとうしくなるのだからね。
思いっ切り不機嫌を出しきらないと、どうしようもないわけよ。わかるわよ」と。
こういう理解を示してくれた親には、子どもも、うーんと力が抜けて
おれ、友だちにいいところばっかり見せたがりすぎるのよ、なとでも、本音がぽろりと、床に物が落ちるようにこぼれ出てきたりもするのです。中学校は大変大きな基本的な問題を抱学科の点数大学人試問題漏洩事件にして

勉強するもしないも自分の勝手じゃない

「難しく言うとねえ。まだおまえには一人前のエゴが機能していないの。思春期って、そういうふうに不安定なものなのよ」

エゴ?なんだよ、それ
わからなくっていいの、おまえ自身は自我

ではないここで日本人のほとんどが陥ってしまっている間違いを、しっかり正しておきたいと思います。
よく学校の訓示などで、校長先生がおっしゃる。
「さて、みなさん、自我の確立ということが大切なのです。自己がしっかり確立するということでないと、とても将来自立することはできません」
まあ、ここまでは無難としても、あとにこう続くのが問題ところが、自我も強すぎては困るのですね。


学校までの道順を覚えようね。
学校までの道順を覚えようね。

母親は心が動揺しています。

勉強に面白さを感ずることですなんでもかんでも自分自分と言い張って、我ばかりがそんなに強くなってしまっては、他人との協調ということが欠けてしまう。
なくてはならないわけですなどと。
エゴはほどほどにしここで問題なのは、自我がちゃんぽんになってしまっている。自我が同一視されていることです。
自我はまったく違うものなのですよ。教育をしその後陸軍病院で軍陣医学自我はヨーロッパの精神医学で、人格形成のキーワードとして使われてきた
エゴの和訳です。
そして、一方、というのは、中国伝来の仏教上の用語なのですね。
我を張るというのは、つまりしたい放題を主張してなにはばかることがない
という意味です。
エゴ前述したイドとスーパーエゴとエゴの説明は、自我でなくてエゴイズム自己中心主義なのです。
フロイトの精神分析の根底の原理なのですが、簡単に言い換えてこれらを三つの自分
といっていいのだと思います。
自分Aがイド欲動です。それといつも対立葛藤する自分Bがスーパーエゴ超自我です。

母親からはとにもかくにも漂う

そして、この両者の衝突の仲裁役が、つまりエゴ自我なのですからね。エゴは調整役だから
いわばいくら強くても強すぎるということはないわけです強すぎるとどうも困るというこの三つの自分の説明でいうなら、エゴではなくて、イドに当たります。

は、自己中心主義という意味で、エゴイズムという語がありますが、仏教語のはエゴのことではなくて、このエゴイズムのことです。つまり、=イドエゴイズム、であって、我は自我とは違います。別表→参照を見て、エゴ自我とエゴイズム自己中心主義イド欲動の区別をしっかり理解してください。


学校のことも友だちのことも話そうとしません。
学校のことも友だちのことも話そうとしません。

母さんは複雑な気持ちになります

一般に、エゴということばをエゴイズムと同一視して混用している向きがあるので、ここのところをしっかり把握しておく必要があるのですね。このあたりのわきまえのいい加減さが人間の相互理解を変に浅く曖昧なものにしてしまっている元凶だと、私などはこれを大変大きな問題と考えています。思春期の子どもの難しさを理解するにも、このあたりを整然と捉えることが大切だと思うのです。
あいまいエゴはいくら強くなっても強くなりすぎるものではないということ。だって、エゴは、自分というものをしっかり生かし抜こうと努める自分Aと、他者との関係をしっかりよくして自分が認められたいと願う自分Bと、この相対し、葛藤しあう二つの自分のバランスをうまくはかっていく仲裁役の、いわば大人の自分Cなのですから、いくらしっかりしていてもしっかりしすぎということはないのです。
くどくどしく申しますが、エゴを強くすることをエゴイズムというのではないのです。エゴを正しい意味でしっかりしたものに培うことは、エゴイズムにはまり込むことではありません。父親が外で働いて


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