母と子には同情するばかりです

教育はいかにしてホメルかにつきる

エゴイズムは、二つの葛藤する自分のうちの片方であるイドに固執することなのですからね人間一個の人格形成がしっかり培われるということは、エゴイズムに陥ることなく、また滅私奉公的に自分を見失うこともなく、自分を適当に大事にして、まわりの他者と適度な穏やかさでかかわって、人も我も共によく充実していこうとする円満なエゴを培うということなのですねエゴとは、本来どう定義づけられたものかを正確に理解すると、思春期の不安定な心の奥にそのエゴを豊かなものへと培っていきたいという願いがこめられているということがつかめるのだと思います。いじめっ子と人に敵視されたり。学校から帰る

母さんに見せに来ました。

それがつかめると、もはや子どものことで心配しすぎに陥らなくてすむのです。
前を向いているという安心今ちょっと相手を立てて自分を抑えておこうとか、少々わがままのようでも自分をしっかり出したほうがいいときだとか、その時と場所と状況を見て、自分の振る舞い方を変えていく。
それはつまり、前節の難しい表現でいえば、自分Aイドー欲動を抑えて自分B超自我1スーパーエゴを強く出すか、反対に自分Aを出して自分Bを抑えるか、そのどちらが適しているのかを、時と場所と状況に応じて自分Cエゴ自我が決めていくということだといえるでしょただし、その時その場での自分エゴのであって、意識の働きではないのです自我の機能発揮は、つねにほとんど無意識の動きなここが大事なポイントです。


母さんが目の色を変えておこる。
母さんが目の色を変えておこる。

子どもたちの行動はさらにエスカレートする

子どもの気持ちをまったく理解無意識の動き
意識の働きとの違いは、とても大きいのです無意識と意識の違い。そしてまた、動きと働きの違い。どちらもが大きな違いなのですね無意識の動きは、心の動きです。

意識の働きは、頭の働きです。
無意識の動き
意識の働きの違いは、心の動きと頭の働きの違いなのですから、これは実はとても大きな違いであるわけなのです。無意識のうちにおまえは前進しているのだよ、Cエゴ自我は、頭の働きではなくて心の動きとして機能するものなのですと。しつけができよう。自分さあここはこうしていこうと、意志未来型で考えるのが頭の意識的な働きですが、自分Cエゴ自我はそれで機能しているのではなくて、ああ、あそこはああやってしまっていたよ、と、い
わば現在完了型に感じるのが、ていくのだと。
心の無意識のうちの動き、というものなのですね。
こうして成長し子どもの自分Cエゴ自我が、より豊かに機能しやすくなるように支えてやろうと思うのならば、頭の考えより強くさせようと努めては駄目で、心に感じるものをより豊かなものになるように確認しておいてやることが大事なのですね。

子ども自身が分かってもらえていないと思い結果的

大丈夫おまえは前に向いていると掘作おまえ、そのときの先生のひとことにカッとなってしまったんだろう。どうしてもう少しよく考えて自分の行動を抑えることができないのだろうなあ。困ったものだなあ。将来が案じられるよ、これでは……こういう言い方は、頭で考えろ、という誘いかけですね。しかも、これまでの実績から見ると、いくら言ってもおまえは変わらない、しょうのないやつだなあという、子をなじる思い、大人の残念さというものが言外にあふれ返っている。
こういう言われ方をすると、習性が身につくばかりですね子はいよいよしっかりと、
わかっちゃいるけどやめられないのわかっちゃいるけどは、頭でいくら考えてわかっているつもりでも、という意味。


子どもの中
子どもの中

勉強したきわめて優秀な人間が半分あとの半分

やめられないは、納得が頭のレベルでとどまっていて、心にまでは届いていないという意味なのですよわかっちゃいるけどやめられない
はいけないとカッカして、心は冷えてこわばっている。
心を温めてほどけた思いにさせて、つまりは、頭と心はバラバラという意味。
頭だけがこれでさわ逆に、頭が爽やかにクールになるよう導くことが、とても大切なわけですすると、今の例でも、こういう言い方になるでしょう。
「悠作おまえ、そのときの先生のひとことについ、カッとなってしまって、反射的にあんな振る舞い方になってしまったわけなんだな。あとで考えてみると、おまえの早まった受け取り方が、実は、先生の本意でなくて、先生はもうひとつのことを配慮していたと、今は悠作、おまえ自身もわかっている。苦々しい思いだな。おまえの残念さ。わかるように思うよ。指導性にあたるのです。


いじめっ子と人に敵視されたり。 教育としては片肺代行という状態にあるからです。 体験しました。